父が戦前に、私は戦後・・・

津嘉山酒造所で働いた
具志堅盛輝さん(昭和7年生)の話を聞く

シボレーのトラックの前で。左端が具志堅盛輝さん
シボレーのトラックの前で。左端が具志堅盛輝さん

 私が津嘉山(つかざん)で働いていたのは、戦後の昭和27年から。ただ父は・加那(明治36年生)が戦前、昭和8年から15年まで津嘉山で働いていた。父は首里の崎山生まれ。母も首里の赤田の人。父は首里の酒屋に勤めていた。那覇垣花の酒屋にも働いていたというが、昭和8年に単身で、この津嘉山で働き始めて、翌年家族を名護に呼び寄せ、近くにあったカワゾー屋の借家を借りて暮らした。私は加那の次男になる。兄弟は十名。


 終戦後は、津嘉山の周辺はみんな家を焼かれてなにもかもなかった。津嘉山は残っていた。そこにたくさんの人が仮住まいしていた。私たちも最初は豚小屋を改造したところにいて、後で麹屋の中の角で暮らした。


一番座と二番座の縁側の前には配給を配る売店もあった。津嘉山の主人は避難先で亡くなり、長男は戦地で亡くなった。戦後すぐには、慶佐次興栄さんという人が、津嘉山の設備を使って酒を造っていたが昭和24年に慶佐次さんが「轟酒造(名護酒造所)」を興したときに、津嘉山の次女・サダの婿の
瑞慶村實さんを呼び寄せた。

 

 私が津嘉山に入った頃は従業員は5,6名くらいしかいなかった。食事を作る人、麹を育てるおばあさん、酒を造る人が二人に配達する人、その頃はまだ量り売りで、小売店に2斗くらいの甕を置いて、その甕に1斗、2斗の単位で酒を配達して売っていた。喜瀬、幸喜くらいまでは自転車で運び、久志方面の配達にはバイクを使った。入れ物は銅製の缶を板で包んだもの。それは二斗五升入った。アメリカの水管も使った。(1斗くらい)


 初めの頃は薪が燃料だった。馬車で中山方面から運んでくるのを買っていた。正面のすぐ左外塀の内側に薪を積んでいた。トラックを使うようになってからは、久志や東方面に配達に行くとき、酒代の代わりに薪を仕入れ、トラックに積んできた。油が使えるようになってからはボイラーを導入した。ビン売りになってから人も増え、20名くらい働いていた。ビン売りになってからはお金がかかった。王冠やラベルも必要になったから。

左端が具志堅さん
左端が具志堅さん

 「清酒平和」という合成酒も造っていたよ。でも清酒ではない。アルコール度数が15度くらいのものを取っておいて、活性炭で匂いを抜いたもの。果物の汁を混ぜることもあった。


 もろみを発酵させる甕は外にあった。麹屋の東にたくさん甕を並べて、簡単な小屋を作って影にして、甕は半分くらい埋めて・・・


 麹屋は三段になっていたよ。立っては歩けなかった。棚いっぱい使って麹を育てていた。麹を管理するのは女だったよ。「麹おばあ」といってね。毎日酒を造っていたよ。休みは一日も無かったよ・・・。

 


概要 | プライバシーポリシー | サイトマップ
© 2009 津嘉山酒屋保存の会